菜の花の沖

by 七色カラス on 1月.03, 2010, under 司馬遼太郎, 歴史、時代小説

菜の花の沖
2000年 文春文庫 (昭和62年に刊行された文庫の新装版)

一人のいじめられっ子の少年が村を抜け出していく、幼いころの名をキッキャ(菊弥)、後の名は、高田屋 嘉兵衛。 裸一貫から、蝦夷地(現在の北海道)、函館(箱館)を基地として、クナシリ島、エトロフ島までへも船を出し、廻船業、水産物問屋業、漁場経営を成功させる江戸時代後期の物語。
NHK でも同名の『菜の花の沖』としてドラマ化されている。

高田屋 嘉兵衛の成功にとって、嘉兵衛の兄弟達の功績、駆け出しの嘉兵衛を預かってくれたサトニラさんこと境屋喜兵衛の息子達の功績も大きかったのではないだろうか。

特に、優れた船頭でもあり商売に長けた弟・金兵衛の存在、商いの面をこの弟に任せることが出来たからこそ、嘉兵衛が冒険者として動き回れた。
同じような関係として、豊臣秀吉と豊臣秀長の関係を思い出した。

この物語の中で、嘉兵衛がただの商人ではない、冒険者としての一面を見せるときの描写にわくわくした。
黄金の日日や、椿と花水木を読んでいるとき同じようなワクワクした気持ちになった。私自身が、どうも、広大な海を渡り、見知らぬ土地へ旅をして、未知の物事に触れるというタイプの物語が好きなようだ。

この物語の中で、もう一人の凄い人、憧れる人とでも言うべき人を知った。
御影屋 松右衛門。  松右衛門帆(後のズックに匹敵)、鋤簾(海底の砂をとる「じょれん」)、石を海中に吊り下げて運ぶ船などの発明者だという。また、材木を海路運ぶときに、貨物である材木そのもので筏(いかだ)をつくり、それに乗って行けばよいではないかという発想を実際にやってのけた人物であるという。この人の言葉として、
人として天下の益ならん事を計らず、碌々として一生を過ごさんは禽獣にもおとるべし
社会の役に立つことこそ大事と言うあたり、現代の起業・創業セミナーなどでも言われていることに通じる。

高田屋嘉兵衛の成功が最も輝いていたとき、運悪く、ロシア船の捕虜となってしまう。 捕虜の身であり、なおかつ一介の商人でしかない高田屋嘉兵衛が、初めての日露外交交渉に臨むことになる。 カムチャツカという異国にありながら、異国の人々ととの間に芽生える友情と信頼。

小説の中では、江戸時代後期の日本の鎖国の考え方や、世界の中におけるロシア事情が詳しく書かれている。 当時の江戸幕府が、蝦夷地へロシアが南下してくるのではないかという危機感を持ちつつ、鎖国体制の中で国際的思考からはるかに遅れてしまっている実情。 このあたり司馬遼太郎氏の記述を読んでいると、およそ100年後を舞台にした同氏の小説『坂の上の雲』につながる日本の国情が見えてくるような気がした。


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